真言立川流

真言立川流は真言密教の一派であり、『理趣経』(般若波羅蜜多理趣品)をその根本経典とし、茶枳尼天を拝した教え。
鎌倉時代に真言宗の阿閣梨である仁寛が、鳥羽天皇暗殺未遂事件(永久の変)の罪で伊豆に配流された折、そこで武蔵国立川の陰陽師である見蓮らと協同で生み出した術式がその基礎とされる。
その後、立川流は真言宗の最大派閥となるまで隆盛。
さらに鎌倉幕府の衰退を見て取った立川流は、幕府から天皇家への鞍替えを企図する。
立川流の奥義を会得した後醍醐天皇は吉野において南朝を開く。以降、立川流はほぼ常に南朝と共にあった。そして立川流は南朝の衰退と共に滅びていくのである。
……立川流の弾圧は、邪宗である事やその教理に問題があったからではなく、南朝方であった事に起因する。そして北朝方であった高野山(真言宗高野派)によって、その権威は徹底的に財められ、教理経典は抹消されてしまった。

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